「持つ・行う・在る」その順序を、もう一度考える

何を証明しようとしていますか

何を持ち、何ができるか

私たちは、何によって自分の価値を確かめているのでしょうか。

以前読んだ本に、こんな考え方が書かれていました。

人は最初、何を「持っている」かで自分の価値を測ろうとする。

お金、家、地位、肩書き。

持っているものが、そのまま自分の値打ちのように感じられる段階です。

やがて関心は、何を「行う」かへと移っていきます。

何を成し遂げたか、誰の役に立てたか。

評価の基準が、所有から行動へと変わっていくのです。

そして最後に、何を持っているかでも、何をしているかでもなく、どう「在る」かが大切になる。

正直であること。

謙虚であること。

誠実で、あたたかいこと。

そういう人のまわりには、何かを得るためではなく、ただ一緒にいたいという理由で人が集まってくる。

持つこと、行うこと、そして在ること。

とても納得のいく話です。

けれど私は、読みながら一つ引っかかるものを感じていました。

これは本当に、下から上へと登っていく順番なのだろうか、と。

私たちは、最初から在った

生まれたばかりの赤ちゃんは、何も持っていません。

仕事もしていないし、何かを成し遂げたわけでもありません。

それでも、ただそこにいるだけで、まわりの大人の顔がほころびます。

私たちは、何かを持つ前から存在していました。

何かを成し遂げる前から、すでに生きていました。

ところが成長するにつれて、少しずつ条件がついていきます。

成績が良ければ認められる。

役に立てば必要とされる。

たくさん持っていれば安心できる。

いつの間にか、「何かができなければ価値がない」「何者かにならなければ認められない」という思いが、心の奥に住みつくようになります。

それは社会がつくった物差しでもあります。

数字にできるもの、比べられるものほど評価されやすいからです。

けれど、それだけではないと私は感じています。

その物差しを、いつの間にか自分自身で握り締めるようになった。

私は、その両方だと捉えています。

本来の順序は、逆なのかもしれない

そう考えると、持つ・行う・在るという順番は、こう置き直すことができます。

在る。

そこから行う。

その結果として、持つ。

外から見れば、どちらも同じように働き、同じように何かを手にしているかもしれません。

けれど、内側はまったく違います。

一つは、足りないものを埋めるために動いている。

もう一つは、すでに在るところから、自然に動きが生まれている。

誤解のないように書いておくと、在ることを大切にするのは、何もしなくていいという意味ではありません。

むしろ、自分の価値を証明するために動く必要がなくなったとき、行うことはずっと自由になります。

認められるためではなく、やりたいからやる。

価値を示すためではなく、目の前の人の役に立ちたいから動く。

結果が出ても出なくても、自分の存在まで否定しなくていい。

だから、必要なのは何か新しいものを手に入れることではなく、自分が何を握り締めているかに気づくことなのだと思います。

気づけば、手をそっと開くことができます。

「体」と「用」

東洋の思想に、「体用(たいゆう)」という言葉があります。

「体」はものごとの本体、そのものの在り方。

「用」はそこから現れてくる働きのことです。

本体があり、そこから働きが生まれる。

働きは、本体と別のところからやってくるわけではありません。

この見方を借りると、在ることと行うことは、もともと切り離されたものではないのだと思えてきます。

在ることから、行うことが生まれる。

行うことによって、何かを手にすることもある。

けれど、何を手にしても、何を成し遂げても、それによって在ることの値打ちが増えたり減ったりするわけではない。

ここからは私の勝手な読み方です。

「体」という字は、本来は本体という意味ですが、私はつい「からだ」と重ねて読んでしまいます。

からだが整うと、そこから自然に働きが生まれてくる。

長く臨床に立っていると、そう感じる場面に何度も出会います。

体がゆるみ、呼吸が深くなった人は、こちらが何も言わなくても、次の一歩を自分で見つけていくことが多いのです。

何かをさせようとしなくても、在り方が整えば、働きはそこから生まれてくる。

私はそう捉えています。

気づいた、その奥に

「私は、ただ在るだけでいい」

そう気づくことは、大きな転換です。

けれど最近、私はその奥に、まだ何かがあるように感じています。

「在るだけで価値がある」という気づきさえ、もしかすると、まだ自分の価値を確かめようとしているのかもしれません。

価値がある、価値がない。

そもそも、その物差しは必要なのでしょうか。

そして、気づいた私が「私は気づいた」と握り締めた瞬間、それはまた一つの「持つこと」に戻ってしまう。

このことを考えていたとき、ふと禅の「十牛図」が浮かびました。

その話は、別の記事「十牛図――悟りのあと、町へ還る」に書きます。

また、治療の場面でこのことをどう捉えているかは、「治そうとしないこと」に書いています。

最後に、答えを出さないまま、問いを一つだけ置いておきます。

あなたは今、何を証明しようとしているのでしょうか。

もし何も証明しなくてよいとしたら、今日のあなたは、どんなふうに在るでしょうか。

のむら整骨院 院長 野村晃生

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院長 野村晃生(のむら あきお)
柔道整復師/臨床歴20年以上

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