十牛図――悟りのあと、町へ還る

気づいた、その先に何がある

気づくだけでいい。けれど

別の記事「「持つ・行う・在る」その順序を、もう一度考える」で、持つこと・行うこと・在ることについて書きました。

私たちはもともと在ったのに、いつの間にか「持つこと」「行うこと」で自分の価値を証明しようとするようになった。

だから、何かを新しく手に入れる必要はなく、握り締めているものに気づけばいい。

それは、昔から「悟り」と呼ばれてきたものの入口なのかもしれません。

けれど私には、その気づきの奥に、まだ何かがあるという感覚がありました。

それは深い静けさのようでもあり、同時に、いのちが動き出すような感覚でもあります。

どちらか一方ではなく、両方なのです。

この感覚を言葉にしようとしていたとき、「円環」という言葉に触れて、ふと一枚の絵巻が浮かびました。

禅に伝わる「十牛図(じゅうぎゅうず)」です。

十枚の絵が描く道すじ

十牛図は、逃げた牛を探しに出た一人の牧人の物語を、十枚の絵で描いたものです。

牛は、本来の自分の姿をたとえたものと言われています。

  1. 尋牛(じんぎゅう)――牛を探しに出る
  2. 見跡(けんせき)――牛の足跡を見つける
  3. 見牛(けんぎゅう)――牛の姿を見つける
  4. 得牛(とくぎゅう)――牛をつかまえる
  5. 牧牛(ぼくぎゅう)――牛を飼い馴らす
  6. 騎牛帰家(きぎゅうきか)――牛に乗って家に帰る
  7. 忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)――牛を忘れ、人だけが残る
  8. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう)――人も牛も忘れる
  9. 返本還源(へんぽんかんげん)――本来の源に還る
  10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ)――町に入り、手を垂れる

前半は、見失ったものを探し、見つけ、手に入れていく道のりです。

持つこと、行うことに懸命になる私たちの姿とも重なります。

面白いのは、牛をつかまえて家に帰ったところで終わらないことです。

第七図では、探していた牛のことを忘れます。

そして第八図では、牛も、それを探していた自分も消えて、ただ一つの円だけが描かれます。

そこには、何かを求める自分も、何かを得た自分もいません。

「私は気づいた」と握り締める私さえ、そこにはない。

深い静けさの絵です。

私が感じていた静けさは、たぶんこの円に近いのだと思います。

静けさの奥から、もう一度

けれど、十牛図は円で終わりません。

第九図「返本還源」では、何もなかった円の中に、ふたたび自然の景色が描かれます。

川が流れ、花が咲いている。

特別なものは何もありません。

もとからそこにあった世界が、あらためて立ち現れてくるのです。

そして最後の第十図「入鄽垂手」で、牧人は町へ戻っていきます。

人々が暮らし、商いをしている、ごく普通の町です。

大きなお腹をした、にこやかな人物が、手を垂れて人々と交わっている。

そんな姿で描かれることが多い絵です。

私は、この最後の一枚に強く惹かれます。

悟ったからといって、山にこもるわけではない。

特別な人として、人々から離れていくわけでもない。

また日常に戻り、人と会い、話し、笑い、食べ、働く。

困っている人がいれば、自然に手を差し伸べる。

そこには、何かを証明しようとする力みも、立派であろうとする努力も、もうあまり必要ないのかもしれません。

花が咲くように、川が流れるように、在り方からそのまま働きが生まれてくる。

私が感じていた「いのちが動き出す感覚」は、この九枚目と十枚目に近いのだと思います。

静けさと躍動。

その両方だと感じていた理由が、十牛図を見て少しわかった気がしました。

円環であり、螺旋である

十牛図の道すじを、持つ・行う・在るに重ねると、こう見えてきます。

もともと在った。

それを見失い、持つことや行うことに懸命になる。

ふと気づき、手を開く。

その気づきさえ手放し、静けさに至る。

そして静けさの奥から、ふたたび日常へ還ってくる。

戻ってきた場所は、最初と同じ町です。

外から見れば、何も変わっていないかもしれません。

けれど、そこで生きる人の内側は違っています。

同じ円を巡りながら、少しずつ深まっていく。

円環というより、螺旋に近いのかもしれません。

治療の場面でこのことをどう捉えているかは、「治そうとしないこと」にも書いています。

波は、一度も海から離れていない

悟りのあとにも、日常がある。

それでも人生は続いていきます。

そして私には、人生が終わっても、何かが続いていっているような感覚があります。

海に立つ波を思い浮かべてみてください。

波は生まれ、高くなり、やがて崩れて消えていきます。

一つひとつの波には、始まりと終わりがあります。

けれど、波が消えても、海が消えるわけではありません。

そして波は、最初から海と別のものだったわけでもない。

波は、一度も海から離れていなかったのです。

私たちのいのちも、何もないところから突然現れたわけではありません。

両親がいて、そのまた両親がいて、数えきれないいのちのつながりの先に、今の私たちがいます。

息を吸い、食べ、人と関わりながら、私たちは絶えず世界と何かをやりとりして生きています。

そう考えると、「私が生きている」と同時に、大きないのちの働きが、今この私という姿をとって現れている、とも言えるのかもしれません。

もしかすると、円環とは、どこかを巡って元の場所に戻ることではなく、一度も離れたことのない場所に、初めて気づくことなのかもしれません。

問いを、ここに置いておきます

この先にあるものを、私はまだ言葉にできません。

答えを急ぐと、せっかく生まれた問いが終わってしまう気がするのです。

だから、問いのまま、ここに置いておきます。

人生が終わったあとも続いていくものがあるとしたら、それは「私」なのでしょうか。

それとも、私を生み出した、もっと大きないのちの働きなのでしょうか。

それとも…。

あなたは、どう感じますか。

のむら整骨院 院長 野村晃生

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柔道整復師/臨床歴20年以上

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